「住所は、この辺で間違いないんだがなぁ」
秋のススキの原をかきわけ、かきわけ、一郎さんは進みます。肩からさげた黒いカバンの中には最
後に残った手紙が一通。一郎さんの仕事は郵便配達です。
田舎の山の村でした。一郎さんはその村で、もう何十年も配達をしているのですから、どの家の名
前も場所もすっかり覚えています。でも手紙の宛名は、山野かの子。村では聞いたこともない名前で
す。
「都会の人がまた、別荘でも建てたのかもしれないな」
ときどき、あるのです。へんぴな山の中にロッジを建てて、別荘に使う人たちが。
「それにしても、屋根ひとつ見つかりゃしない。……寒っ」
遠い山の峰には、もう白い雪がかかっていました。この先は雑木林。雑木林の中に建っているので
しょうか。ありそうなことでした。
「せめて立て札のひとつでも立っていたらなぁ」
一郎さんは紺色の制服のえりを立てました。郵便配達のことなんて、だれも考えてはくれません。
ポストの前にワンワン吠える犬をつないでいたり、郵便受けが家の裏の勝手口についている家もあり
ました。一郎さんの足には犬に噛まれたあとが三か所も残っています。玄関に自転車を置いて勝手口
までまわるのは、
「めんどうだなぁ」
そう思うこともありました。
「おや、手紙を届けにきてくれたのかい」
いつからそこにいたのでしょう。ふいに声をかけられて、一郎さんはおどろいて振り返りました。
ススキのあいだから、ひょっこり顔を出しているのは、もんぺ姿のおばあさん。
ふさふさの白い髪をぎゅうっとひとつに結んだ小柄なおばあさんが、にこにこ笑って、立っているの
です。少しまがった腰の後ろで両手をつないで、昔々から村に住んでいたような顔をしています。
(こんなおばあさん、いたっけなぁ?)
何十年もこの村に住んでいるのに、一郎さんには、どうしても思い出せません。
「山野さんですか?」
「はいはい。そうですよ」
(やっぱり、どこからか越してきたんだな)
一郎さんは思いました。おばあさんは手紙を受け取ろうと、もう片手を出しています。
「さあさ、早く手紙をくださいな」
「そうはいきません」
せかせるおばあさんに、一郎さんはキッパリといいました。
「あなたが、ほんとうに山野さんなのかどうか、僕にはわからないんですからね」
そうそういつも、おばあさんがひょっこり現れてくれるとはかぎりません。
「どうか、家まで案内してください。僕の仕事は、その家に届けることなんですから」
そうしておかないと、次にまた手紙が来たとき、林の中で迷子だなんてうんざりです。
(郵便配達のことなんか、だれも考えてくれないんだから)
「そんなかたいこといわないで、わたしが山野だってことは間違いありゃしませんて」
「そうはいかないんです。僕も仕事なんですから」
ススキの穂がさわさわ揺れていました。吹き抜ける風も、ひんやり。もう、じきに夕暮れの来るこ
とを知らせています。
「やれやれ、おかたいこった。じゃ、ついて来んさいよ」
おばあさんは、クリッとからだの向きを変えました。その先は雑木林。
(やっぱり、あの林の中なんだな。よーく、道を覚えておかないと)
一郎さんはカバンの肩ひもを、ぎゅっとにぎりました。ところが、おばあさんのあとを追いかける
一郎さんは、道を覚えるどころではありません。たったたったと、おばあさんは先を行くのです。一
郎さんはその背中を見失わないようにと、ついていくだけで精一杯でした。
「はぁはぁはぁ……」
肩で息をしながら、
(ずいぶん、達者なおばあさんだ)
おばあさんは林を抜け、山へ入っていきます。そこには道もないのに、おばあさんは、たったたっ
た……。一郎さんはまるでウサギでも追いかけているかのようでした。
見上げる空にはうっすらと、夜のとばりまでが追いかけてきました。満月は黄色く、クスクス笑っ
ているように見えます。もうよほど手紙を渡してしまおうかと、一郎さんは思いました。息は切れる
し、お腹はすくし、山を歩いた革靴もズボンも泥だらけです。
「すっ、すみませんけど、もう少し……」
おばあさんは、クリッと振り向きます。
「はいはい?」
「はぁはぁ。ゆっくり行ってもらえませんか。はぁはぁはぁ……」
暗くなった木々の陰から、にんまり笑ったおばあさんが、一郎さんをのぞき込みました。
「こりゃあ、また若いのに、だらしのないこった。いっそ手紙はもらってきましょうか」
おばあさんが片手を出しました。一郎さんは、まるで自分にいい聞かせるように、
「ですから、そうは……、そうはいかないんです。仕事ですから」
「おや、そう」
おばあさんはまたクリッと向き直ると、結んだ髪をゆらせながら、とっととっと……。
でもその足はさっきより、ほんの少しゆっくりでした。あとを追う一郎さんの目に、おばあさんの
ふさふさした髪が、動物のしっぽのようにも見えました。差し交わす木々の枝のあいだから、ときど
き差し込む月明りに、その髪はちらちらと光ります。その光を見失わないよう目をこらしながら、
(なんで手紙をわたしてしまわなかったんだろう)
一郎さんは後悔していました。でも、せっかく、ここまで来たのです。こんなところまで来てしま
ったのです。
(よしっ!)
一郎さんは腹をくくりました。そして鼻息あらく、
(絶対、仕事を果たしてやるぞ)
歯を食いしばりました。
それにしても、ずいぶん歩いています。
「住所は、この辺で間違いないんだがなぁ」
そういったのはススキの原です。こんなに離れてしまっては、住所が違っているかもしれません。
(あれ? ここは、さっき通ったところじゃないか?)
一郎さんが、そう思い始めたときでした。先を行くおばあさんの向こうに、ぽっかり赤い屋根が見
えてきました。
(ああ、やれやれ)
一郎さんは、大きなため息をつきました。
「おつかれさん」
小さな家のポストの前で、おばあさんは笑いをこらえているようでした。一郎さんにはそんなこと
より、手紙を届けることのほうが大事です。
「どっ、どうも」
ポストには、住所も名前も書いてあって、手紙の宛先に間違いありません。一郎さんはポストの中
へ手紙をストンッ。これで肩からさげたカバンの中は、からっぽになりました。
気がつけば、空はもうすっかり暗くなっていました。おばあさんは、さっそく手紙の封を切ると、
手紙を読んでいます。
「それじゃあ、僕はこれで」
苦労して届けた手紙を読んでくれているおばあさん。その姿に一郎さんの胸は、ほうっと満たされ
るようでした。さあ、帰ろう。一郎さんは来た道を戻ろうとしました。
と、おばあさんが呼び止めます。
「おかたい郵便屋さん」
またずいぶんな呼び方です。ちょっとムッとしながら、一郎さんは振り向きます。おばあさんはお
かまいなし。にっこり笑いながら、
「あんたにゃあ、感心したよ。よくもまあ、こんな山奥まで仕事を果たしに来たもんだ」
「いっ、いやぁ」
おかたい郵便屋さんなんて呼ばれたこともすっかり忘れて、一郎さんは照れ笑いを浮かべました。
こんなに大変な配達は初めてのことでした。それをほめてもらったのですから。
「よかったら、休んでお行きよ。お腹だってすいたろう」
「そんな……」
煙突をつたって、みそ汁のいいにおいが、あたりにただよっていました。一郎さんのお腹が、ぐう
っと鳴ります。
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しがみねくみこ (土曜日, 12 11月 2022 17:16)
何度も書き直した大事な作品です。(*^_^*)