ぼくは、爽快な気分で、山を降りていました。見事な滝を見たのも、緑の木々に癒されたことも、たしかにそうでしたが、それよりも何よりも、がんこな頭痛がすっかり治ったことが嬉しかったのです。

 ぼくは、もう何年も、頭痛に悩まされていました。薬を飲んでも、ほんの気休めになるだけで、ちっとも効きません。今日も、電車を降りる頃には、ガンガンと、頭を木槌で打たれるような痛みに襲われていました。

 ところが、カバンの中には、気休めの薬も入っていませんでした。山歩き用のカバンの中に、いつもの薬を入れるのを、すっかり忘れていたのです。

 ぼくは、駅を出ると、山道へは向かわず、道を横にそれました。薬局を探しに行ったのです。そこで見つけたのが、その店でした。

 『頭痛、肩こり、腰痛、ねんざ、

  なんでも、ご相談ください』

 店には看板はなく、そんな張り紙が貼ってあるだけでした。

 頭痛という字を見つけたぼくは、いそいで店のガラス戸を開けると、

「すみません。頭痛薬が欲しいんです」

 中から現れたのは、黒いセーターに、黒の長いスカートをはいた、髪の長い女の人。それから、なんとも、あやしげな匂いでした。

「どんな風に、痛みますか?」

 訊かれたぼくは、説明をしながら、ここは普通の薬局じゃないな、と、思いました。

 店には、カウンターになったガラスケース。その中に置かれているのは、箱に入った市販薬ではありません。木や草の根っこや、乾燥した植物。それに、木の実……。

「何回分、いりますか?」

 と、訊かれ、ぼくは、

「あの……、一回分でいいんです」

と、答えました。

(変な店に来てしまった)

 ぼくは、そう思っていました。

 女の人は、秤の上に一回分の粉薬を載せると、それを四角い紙に包んでくれました。ぼくは、それを受け取ると、代金を払って、とにかく店を出ました。

「こんな薬を飲んで、だいじょうぶだろうか?」

 でも、頭の痛さは、我慢できません。ぼくは、さっそく、水筒に入った水で、その薬を飲みました。

 そうして、山道を登ることにしたのです。ところが、三十分ほども歩いた頃でしょうか。ぼくの頭痛は、すっかり治っていたのです。

 何年も苦しめられてきた頭痛が、こんなにもあっさりと治ってしまうなんて、ぼくには信じられませんでした。

「帰りには、あの薬を、ごっそりと、買って帰ろう」

 ぼくは、滝を見るのもそこそこに、山を降りることにしました。そうして、あの店を目指したのです。

 当たり前ですが、店は朝に来た時と、そっくりそのまま、そこにありました。

 ガラス戸を開けると、中から出てきた女の人は、ぼくの顔を見て、

「あら」

 というと、

「痛みは、治まりましたか?」

と、訊ねてくれました。

「ええ、すっかり、よくなりました。それで、その……、あの薬をもらえるだけ、もらって帰りたいのですが……」

 ぼくは、遠くから、この山へ来たこと。もう何年も、薬を飲んでも治らない頭痛に悩まされていることを話しました。

「わかりました。少し、時間がかかりますけど、よろしいですか?」

 女の人の言葉に、ぼくは、

「もちろんです」

 と、答えました。

「それじゃあ、そこのイスに座って、お待ちください」

 店の壁にそって、籐でできたイスが五つ、並べてあります。ぼくは、そのイスに腰掛けて、奥に入って行く女の人の背中を見送りました。すると中から、今度は、年配の男の人が、湯気の立ったお茶をお盆に載せて現れました。

「退屈でしょう」

 男の人は、そういうと、お茶を勧めてくれました。そして、こんな話を始めたのです。

「昔、ここの山に、かしこいサルがいましてね。それはそれは、かしこいサルでした。

ところがある時、考え事をしていて、うっかり、木から落ちてしまったんです。

サルは、腕にケガをしてしまいました。

『これでは、エサも、取りに行けない』

 サルは、悩みました。

 そこでサルは、また考えて、

『そうだ。あの人に助けてもらおう』

 あの人というのは、時々、山へ来る女の人でした。

 ……こんな話、面白くありませんか?」

 ぼくは、すすっていた熱いお茶を置くと、かぶりを振りました。

「そんなことは、ありません。どうぞ、続けてください」

「そうですか」

 男の人は、満足そうにあごをさすると、また話し始めました。

「ええっと、どこまで話しましたっけ。そうそう。時々、山へ来る女の人のことだ。

 その人は、不思議な人でね。滝を見に来た若い夫婦が、泣きやまない子に困っていると、その子をピタリと泣きやませたり、『お腹が痛い』とうずくまる老人を、あっという間に、治したり。それをサルは、見ていたんです。それで、

『きっと、このケガも治せるに違いない』

と、思ったんですよ」

 ぼくは、時々、相づちを打ちながら、男の人は、お茶を飲みながら、話は続きました。それはだいたい、こんな話です。

「サルは、女の人が来るのを待ちました。

 そうして二日目にやっと、その人に会えた時、サルは、ケガをした腕を挙げながら、

『どうか、このケガを治してください。そうすれば、きっと、あなたの役に立ちますから』

と、いいました。

 その人はびっくりして、大きく目を見開くと、

『人の言葉を話すサルとは、めずらしい。わかった。このかごの中に隠れておいで』

 そうしてサルは、その人が肩から下ろしたかごの中に、素早くもぐりこんだのです。

 その人は、それを背負い、山を降りました。

 サルは、その人の家まで、連れていかれ、薬草で、ケガを治してもらいました。

 その人の名は、もみじ。

『おまえにも、名前をつけたほうがいいね』

 もみじはサルに、イチという名前をつけました。

 イチはケガが治るまで、もみじのすることを、よく見ていました。

山へ行き、薬草を摘んで、それを薬にする。

 今まで、エサを食べて生きていくだけだったイチには、それが面白そうに見えて、しかたありません。

『わたしにも、手伝わせてください』

 イチは、ケガが治っても、もみじの家に隠れ住み、もみじのいうことをよく聞き、よく見て、ひとつひとつ、覚えていきました。

 薬草の種類、すり鉢の使い方、薬の調合。そしてその薬が、どんな人に効くのかを。

 イチには、もみじが、神のように思えました。どこかが痛いという人、眠れないと嘆く人、

「手の先が、冷たくて……」

 頼ってくる人を、次々と、治していくのですから。

 でもイチは、知らなかったのです。もみじのところに来る人は、もみじに治せる病の人だけだということを……。

 いつしか歳月は流れ、イチは、すっかり、もみじの技を、覚えてしまいました。イチは、有頂天になり、もみじが人の神ならば、自分は山の神になろう、と、思ったのです。

 ある日、イチは、いいました。

『もみじさん、わたしは、山に戻って、山の動物を助けようと思います』

『それならば』

 もみじは、薬を作る道具まで、持たせてくれました。

 イチは、山へ戻ると、動物の神らしく振舞おうとしました。山の洞穴に住まい、道具を置いて、薬草を摘み、薬を作って、動物たちに使いました。

 始めは嫌がっていた動物たちも、だんだんと、イチを慕うようになっていきました。

『わたしに治せない病はない』

 イチは、ますます有頂天になります。

 ところが、とうとう、イチは知ってしまうのです。自分が、神ではないことを……。

 それは、突然にやってきました。事故に合った子ザル……。イチが、ありったけの薬草を使っても、母親に抱かれた子ザルの傷が癒えることはありませんでした。

『そんなバカな……』

 イチは、呆然としました。

 冷たくなった我が子を、母ザルはいつまでも離しません。イチに巻かれた包帯は、子ザルの手足に残ったまま……。それは、日を追うごとに汚れていき、イチの力のなさを、山じゅうに知らせていきました。

『もう、この山には、いられない』

 真夜中に、イチは、もみじを頼って、山を降りました。そうして、イチは、もみじと暮らすことになったんですよ」

 ぼくは、思わず、店の中にサルの気配がないかと、見まわしました。それがないとわかると、ぼくは、男の人に訊きました。

「それから、そのサルは、どうなったんですか?」

 お茶は、すっかり、なくなっていました。ガラス戸の向こうの店の前を、西日が照らしています。男の人は、にっこり笑って、

「サルのイチは、人になりました」

「えっ?」

 目を見開くぼくの近くに顔を寄せると、男の人は小声でいいました。

「もみじという人は、実は、魔女だったんです。呪文を唱えるとね、イチは、人へと姿を変えたんですよ。もみじは、いいました。

『これなら、また山へ登って、動物たちの病を治してあげられるだろう?』

 だから今でも、イチは山へ登っているんです」

 言葉を失ったぼくの耳に、

「お待たせしました」

 女の人の声が聞こえました。

 振り向くとそこに、できたばかりの薬が積み重なっていました。

「必ず、一回に一袋。それ以上、飲んではいけません。それから、乾燥した場所で保管してくださいね」

「あっ、……はい」

 ぼくは、イスから立ち上がると、薬を受け取って、代金を払いました。

 もしかするとぼくは、だまされたのかもしれません。

 でも頭痛が起きて、薬を飲むたびに思うのです。

「いや、あの話は、ほんとうだったんだ」

と。

コメント: 1
  • #1

    しがみねくみこ (金曜日, 30 12月 2022 13:23)

    イチと同じお話しです。