りんごの木は、赤い小さなりんごを、きらきら光らせ、その少し離れたところに、おじいさんはすわっていました。
茶色いベレー帽をかぶったおじいさんのうしろから、あかねはそっと、おじいさんのスケッチブックをのぞきこみます。
そこに描かれていたのは、りんごの木。
おじいさんは、ちらっと、あかねをふり返ると、いたずらっぽい笑顔を見せて、筆をとりました。
水色の絵の具を、ちょんちょんと筆ににじませ、おじいさんの手が、スケッチブックの上でリズムよく動きます。
「あつ、うさぎ!」
あかねは思わず、声をあげました。
おじいさんが、りんごの木の下に、水色のうさぎを描いたのです。
「そう、ウサギだよ。ほら」
顔をあげ、おじいさんは指さします。
そこには、めずらしい水色のふわふわうさぎ。
あかねと目が合うと、うさぎはおどろいたように伸びあがって、いそいで木のうしろにかくれました。
「あかね」
おかあさんが、呼んでいます。
日曜の午後。
そこは、降りそそぐ陽射しがまぶしいくらいの植物園でした。
りんごの木の下に、あかねは、かけよります。
「あれ?」
うさぎは、いなくなっていました。
木のうしろ、草のかげ。
あかねは、さがしまわります。
「うさちゃん、うさちゃん、どこいったの?」
でも、どこにも、うさぎはいないのです。
ふり返ると、そこには、
「あれれ?」
さっきまでいたはずの、おじいさんまでいなくなっています。
あかねは、目をこすりました。
「あかね」
おとうさんの大きな手が、あかねを待っています。
「待ってよー」
あかねは、その手をおいかけました。
サンドイッチが入っていたバスケットを持って。
おとうさんの手をつかみ、あかねはもう一度、ふり返りました。
草かげに、ちらっと、水色の耳を見つけたような気がします。
「ねえ、うさぎがいたのよ」
「うさぎ?」
おかあさんが足を止めました。
「うん。水色のね、ふわふわうさぎ」
すると、おとうさんとおかあさんは、目を見合わせて笑いました。
「ほんとなんだから!」
あかねは、りんごみたいに顔を赤くして、ほっぺたをふくらませました。
ところが帰りの車の中で、あかねはまた、水色のうさぎを見つけたのです。
おとうさんは運転席。おかあさんは助手席。後部座席にいるのは、あかねとうさぎ。
「えっ?」
その声を、あかねは飲み込みました。
からっぽのバスケットをひらいて、うさぎを中に押し込みます。
見つからないように。
うさぎはふわふわで、わた菓子のようでした。
ぎゅっと抱きしめたりしたら、つぶれてしまいそうです。
うさぎは鳴きません。それにあばれたりもしないで、静かにバスケットの中におさまっています。
うれしくて、あかねの胸は、ことこと鳴りました。
ことこと、ことこと。
植物園から、車が離れていきます。
雲のように軽いうさぎと、あかねを乗せて。
家に着くと、
「ああ、つかれた」
大きなため息をつく、おとうさんとおかあさんを追い越して、あかねは自分の部屋にいきました。
軽いバスケットに、まだいるのかと、どきどきしながら、
「うさちゃん」
あかねが、そーっと手をのばすと、うさぎは自分から、ぴょこんと顔を出しました。
やっぱり、あの時の絵の具と同じ水色です。
「うさちゃん、うさちゃん」
あかねは、両手をひろげます。
うさぎは桃色の目をぱちぱちさせながら、部屋の隅に逃げました。
それから、ちろっと、あかねを見ます。
まるで、あかねを待つように。
「おいで、おいで」
それなのに、あかねが近づくと、また逃げ出すのです。
「そうだ。うさちゃん、ちょっと待ってて」
あかねは、キッチンまで走りました。
野菜かごからにんじんを引き抜くと、見つからないように背中にかくしながら、部屋まで戻ります。
おとうさんとおかあさんは、リビングのソファーにすわったまま。
おかあさんは、あかねをふり返りもせずに、
「お風呂にはいりなさいよー」
「はーい」
でも水色うさぎは、にんじんには見向きもしませんでした。
少し離れたところから、あかねを見ているだけ。
「こまったなー。にんじん、きらいなのかなぁ?」
机の前に腰かけて、あかねはにんじんを手に持ったまま、大きなため息をつきました。
それからランドセルの中の自由帳と色鉛筆を取り出すと、描きたくもないにんじんの絵を描きます。
そうしておけば、野菜かごに、にんじんを返すとき、
「絵を描いたの」
と、おかあさんに、言い訳できるからです。
あかねがにんじんの絵を描いていると、うさぎは鼻をひくひくさせながら近づいてきました。
「これで、よし!」
葉っぱの緑色まで塗り終わると、うさぎは、ひょいと机の上にとびのりました。
「えっ?」
びっくりするあかねの目の前で、うさぎは絵に描いたにんじんを食べ始めます。
描いたばかりのにんじんの絵は、消しゴムで消されるようになくなっていきました。
「どうして?」
あかねは試しに、もう一度、今度は草の絵を描いてみました。
するとうさぎは、ひくひくした鼻をページに近づけ、その草も食べてしまいました。
「おもしろーい」
うさぎがお腹いっぱいになるまで、あかねは絵を描き続けました。
干し草、クローバー。それからりんごの絵。
そのとき、ドアがあいて、
「はやく、お風呂に入りなさい」
あかねは、びくっと、肩をすくめました。
おかあさんです。
あかねは、とっさに、机の上のうさぎをかばうように立つと、
「ねえ、いいでしょ。うさぎ、飼ってもいいでしょ」
「えっ?」
「ねえ、うさぎ。水色うさぎ。絵に描いた餌しか食べないのよ」
おかあさんは、笑い出しました。
「いやねぇ、あかねったら。水色のうさぎなんて聞いたこともないわ。絵に描いた餌を食べるって、それ、何に出てくるの?」
「ちがうよ」
あかねは、机をふり返りました。
たしかに水色のふわふわうさぎは、こちらを向いてすわっています。
それなのに、おかあさんときたら、まるで見えないようにいうのです。
あかねは目をまるくして、おとうさんを呼びました。
おかあさんの目が、おかしくなったと思ったのです。
それなのに、おとうさんまで、まるで見えないようにいうのです。
「水色うさぎ? そういえば、植物園でもそんなこといってたなぁ」
「何にしても、生きものはだめよ」
おかあさんの目が、悲しそうにくもりました。
子どものころ、飼っていた犬を亡くしてから、おかあさんは二度と生きものは飼わないと決めていたのです。
あかねは、もう何もいいませんでした。
おとうさんにも、おかあさんにも、見えないうさぎなら、このまま、いっしょにいることができる。
そう思ったのです。
ベッドに入ってからも、あかねは、いつまでもうさぎを見ていました。
「そうだ」
思い出して起き出すと、うさぎの餌をいっぱい描きました。
にんじん、りんご、干し草。それに、
「水も飲むかしら?」
水たまりをひとつ描きました。
それが水たまりだとわかるように、かさの絵も描きました。
赤い雨がさ。
青く晴れた空には、おひさまも。
そこには雲も浮かべました。
「これで、どこにもいったりしないよね」
ベッドに戻ったあかねは、ほうっと大きく息をつき、水色うさぎを見つめていた目は、静かに静かにとじていきました。
あかねとうさぎは、少しずつ、なかよくなりました。
うさぎは耳をすませて、あかねの話をじっと聞いてくれたり、ときには、抱かせてくれるときもあります。
ふわふわの毛の中に、あかねは顔をうずめると、
「いい匂い!」
それは空をあおいだときに香る、風の匂いでした。
あかねは毎日、うさぎのために絵を描きます。
草や果物。
うさぎは、クレヨンで描いた絵は、あまり好きではなくて、色鉛筆や、特に絵の具で描いた餌が、一番のお気に入りのようでした。
あかねは、うさぎのためのスケッチブックも買いました。
そこには、空や山や木や、花やちょうちょや小鳥の絵が、何枚もつづられます。
ある日、あかねは思い出して、そこにあの植物園のりんごの木を描きました。
あのときのおじいさんのように。
それから残った茶色い絵の具を薄めて、うさぎを描いてみました。
茶色のふわふわうさぎです。
水色うさぎに友だちができたら、きっと、よろこぶに違いないと思ったからです。
そのとおりでした。
うさぎは、あかねの描いた茶色いうさぎの前に釘付けでした。
不思議そうに、でも愛しそうに、いつまでも茶色いうさぎを見ていました。
そうして次の日、水色うさぎはいなくなってしまったのです。
あまりにも突然に。
「うさちゃん、どこにいったの?」
あかねは青くなって、うさぎをさがしました。
どこに隠れたのでしょう。
どこに行ってしまったのでしょう。
「うさちゃん、うさちゃん」
あかねは、家じゅう、呼んでまわります。
「うさちゃんって、何のことだい?」
けげんそうな顔のおとうさんに、
「水色うさぎが!」
いってしまってから、あかねは、ないしょだったことを思い出して、ハッとしました。
「水色うさぎ?」
聞き返したおとうさんに、
「生きものはだめよ」
おかあさんの悲しい目。
そのとたん、あかねは、泣き出してしまいました。
大粒の涙が、いくつもこぼれて、止まりません。
おとうさんは、あかねを抱き寄せると、おかあさんにいってくれたのです。
「もう、いいじゃないか」
今度は、おかあさんの目から、涙がこぼれます。
「だって、生きものと別れるのは、ほんとに悲しいんだから……」
あかねは、おかあさんの首に抱きつきました。
「おかあさん。わたしにも、……わたしにも悲しいってわかるよ」
部屋に戻ったあかねは、
「もう、いらなくなっちゃったの?」
閉じようとしたスケッチブックを見て、目を見張りました。
きのう描いたりんごの木の下の茶色いうさぎのそばに、水色うさぎが並んでいたのです。
「うさちゃん!」
呼んでも、呼んでも、もう水色うさぎは戻ってはきませんでした。
あかねは、その絵を、壁に飾りました。
二匹のうさぎは、楽しそうに、幸せそうに見えました。
植物園のりんごの木の下で遊んでいる二匹のうさぎが、あかねの目の奥に浮かびます。
「うさぎの絵を描いたの?」
おかあさんが、それを見て聞きました。
うなずくあかねに、
「うさぎ、飼ってもいいわよ」
「えっ?」
それからしばらくして、真っ白なふわふわうさぎが、あかねの家にやってきました。
名前はやっぱり、『うさちゃん』
そしてあかねは決めていました。
「次に植物園に行くときは、あの絵も持っていこう。りんごの木の下に、二匹のうさぎを返してあげよう」
真っ白うさぎのうさちゃんは、絵に描いたにんじんは食べません。
でも、ほんとうのにんじんを、あかねの手から、おいしそうに食べるのでした。
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しがみねくみこ (土曜日, 31 12月 2022 11:51)
昔に描いて、もう紙でしか残っていなかった作品をパソコンに起こし、書き直した作品です。
当時、ボツになってしまった未公開作品です。(*^_^*)