ひとりぼっちのクルト。

 クルトは今も、あのアパートに住んでいるのでしょうか。

 

 駆けのぼった二階のドアの前で、綾香はノブに手をかけたまま、中に入るのをためらっていました。

 秋の空はもう茜に染まり、足元を冷たい風が吹くというのに。

 綾香はアパートのその部屋が好きになれなかったのです。

「ただいま」

 声をかけても誰もいない部屋。何もないその部屋が。

 

「おかあさん、早く帰って来ないかな」

 窓から見下ろす道には、もう街灯も燈っています。

 けれどもそこを通るのは知らない人ばかり。

 と、カギをかけたはずのドアが開いたのです。

「おかあさん?」

 その音に振り返る綾香の前には、小さな男の子が立っていました。

「だれ?」

「ぼく、クルト」

「なにか用?」

「遊んで」

 知らない男の子が、いきなりドアを開けて『遊んで』だなんて。

「このアパートの子なの?」

「そうだよ」

「おとうさんか、おかあさんは?」

「いない」

「……そう」

 

 綾香とおんなじ。

 ひとりぼっち。

 綾香はクルトを部屋に入れてあげました。

 遊んであげることにしたのです。

 

 大好きだったおとうさん。

 おとうさんが亡くなって、綾香はいろんなものを失いました。

 生まれ育った家からアパートへ引っ越し、おかあさんも働くことになったからです。

 仲良しの友だちも、居心地のよかった部屋も、あたりまえのように返ってきた『おかえり』の返事も、今はありません。

 飾られていたおとうさんの写真は、ただ笑っているだけ。いつもいつも静かに笑っているだけです。

 

「なにして遊ぼうか」

 クルトがポケットから、あやとりの糸を取り出します。

 すいすいと糸をあやつり、『川』を作ると、

「はい」

 綾香に小さな手を差し出します。

 クルトはなかなか上手でした。

 夢中になって遊んでいると、あっというまに時間が過ぎます。

 夜のとばりに細い細い三日月。

 もうすぐおかあさんも帰ってくる時間。

「また来るね」

 つっと立つと、クルトはドアを出ていきました。

 

 廊下の向こうからは、おかあさんの足音。

「おかえり、あのね……」

「ただいま」

 疲れて帰ったおかあさんに、綾香はクルトのことを話せませんでした。

 おとうさんのいた頃は、なんだって話せたのに。

 ふとんの中から、そっとのぞきます。

 寝息を立てているおかあさん。

 揺り起こして甘えたい。

「おかあさん、疲れてるんだもん」

 寝返りをうつと、こらえた綾香の頬に、涙だけが止まりませんでした。

 おとうさんが生きていてくれたら。おとうさんが生きていてくれたら……。

 

 次の日も、クルトは遊びに来ました。

 次の日も、また次の日も。

 そんなある日、クルトがおとうさんの写真を見つけたのです。

「これ、だあれ?」

「おとうさんよ」

 クルトは写真をじっと見つめると、

「この人のこと好き?」

「うん。大好きだった。でも亡くなってしまったの」

「今でも? 今でも大好き?」

 クルトの澄んだ瞳に真っすぐに見つめられ、綾香は返事ができませんでした。

「また来るね」

 クルトはドアを出ていきます。

 綾香はずっと考えていました。

(私、今でも、おとうさんのことが好きなのかな……)

 

 次の日、クルトは来ませんでした。

「また来るね」

 そういっていたのに。

 だから待っていたのに。

 

 静まり返った部屋。なにもないその部屋で、綾香は膝を抱えて、

「おとうさん」

 綾香が手に持ってみても、写真から返事は返ってきません。

 

 誰が毛布を掛けてくれたのでしょう。

 写真立てを持ったまま、綾香はいつのまにか眠っていました。

「……クルト?」

 暗くなった部屋には物音ひとつしません。

「……おかあさん?」

 廊下の向こうから足音が近づきます。

「ただいま」

 ドアを開けたのは、疲れた顔のおかあさん。

「おかえり……」

 どうしておかあさんは、『どうしたの?』って訊いてくれないのでしょう?

 『なにがあったの?』って訊いてくれないのでしょう?

 

「おかあさんは今でも、おとうさんのことが好きなの?」

 綾香の口から勝手に言葉が飛び出していました。

 答えは返ってきませんでした。

 おかあさんの頬を涙が流れるばかり。

(ああ、なんで訊いちゃったんだろう)

 後悔したって遅いのです。

 綾香は自分に腹が立って腹が立って、それからこんなときに笑っている写真のおとうさんに腹が立って、

「おとうさんなんか大嫌い!」

 

 投げられた写真立てのガラスが割れます。砕けたガラスの中で、おとうさんはまだ笑っているのです。

「おとうさんなんか! おとうさんのせいでみんななくなっちゃった。おとうさんがみんな持ってっちゃった」

「いいのよ……」

「えっ?」

 おかあさんはそれでいいのだといいました。おとうさんが持って行ったのならそれで。

「おとうさんはひとりぼっちなんだから。おかあさんには綾香がいるんだから」

 それ以来、クルトが来ることはありませんでした。

 

 次の日曜日に、新しい写真立てを買いました。おかあさんとふたりで。

 綾香は今まで話せなかったたくさんの話をしました。

 クルトのこと以外、みんな。

 話してしまったらクルトにはもう会えない。

 そんな気がしたからです。

 

 アパートを引っ越す朝でした。

 あれから三年も経った朝でした。

「さよならをいってくる」

 駆けのぼったアパートの二階。がらんとしたなにもない部屋に向かって、綾香は呼びかけます。

「さよなら、クルト」

「さよなら」

 それはクルトの声でした。

 綾香の目の前に、あの頃のままのクルトが、あの頃のように立っていたのです。

「クルト!」

 クルトは、にっこり笑っています。小さな男の子のままのクルトが。

「どうして?」

「ぼくは、このアパートに住んでいるクルト。寂しい人にしか見えない。綾香がぼくと会えなくなること、寂しいって思ってくれたから、また会えた」

 クルトは綾香にぎゅうっと抱きつくと、宙に浮かんで消えていったのです。

「さよなら」

 

 笑顔を残して。

コメント: 3
  • #3

    しがみねくみこ (火曜日, 28 3月 2023 19:53)

    ありがとうございます。
    推敲のいる作品だとは思ったのですが、今の私が推敲したら、つまらない作品になってしまうと思って、昔のまんまでアップしました。(*^_^*)

  • #2

    ちさちゅん (火曜日, 28 3月 2023 08:17)

    じーん。切ないけれど優しい余韻。

  • #1

    しがみねくみこ (火曜日, 28 3月 2023 06:30)

    つたない作品ですが、当時書いたものを、そのままアップしました。
    つたないながらに、好きな作品です。