「蜂蜜を売ってくるように」

 健康食品の会社に勤め出して、初めてひとりで任された仕事がそれでした。

商店街のはずれに店を出し、台の上に蜂蜜のびんやパンフレットなんかをならべます。

きのう作った試食用のレモンのハチミツ漬けも、うまくできています。漬け汁を冷たい水で割ると、なかなかの味でした。

ところが、さて呼び込みをしようとすると、はずかしくて声が出ないのです。ぼくは台の上の蜂蜜をならべかえたり、書類を見るふりなどをして、そうしているうちに、時間ばかりが過ぎていきました。

そこはちょうど四つ角の一角になっていて、人通りがないわけではありません。それなのにぼくは、通り過ぎる人の顔を見ることさえできなかったのです。

 と、一匹のトラ猫が、人懐こく、ぼくの足にすり寄ってきました。ケガでもしたのか、その猫は後ろ足をひきずっています。

「そうだ、いいものがあった」

 ぼくは鮭おにぎりのことを思い出しました。緊張して、お昼を食べるのも忘れていたのです。試食用の皿に半分分けてやると、トラ猫もぼくも、がつがつと、それを食べました。

「あら、トラちゃんじゃないの」

 ふり返るとそこに、ぷっくり太ったおばさんが立っていました。

「あっ、あの、おたくの猫ですか?」

「いいえ。この猫は、ほら、あそこの公園に住んでいるのよ」

 そこは斜め向かいの角にある、金木犀の咲く公園でした。

「うちで飼ってあげたいんだけど、うちには犬が二匹もいてね」

「はあ……」

「だれか、いい飼い主が見つかればいいんだけど、この足じゃねえ。だから、ほら」

 おばさんが開いて見せてくれたカバンの中には、キャットフードの缶詰。トラ猫のために、こっそり運んでいるようです。

「ふふふ」 

昔からの知り合いのように、おばさんは笑うと、

「ところで、これ、蜂蜜?」

「はっ、はい」

 ぼくはえりをただしました。あわてて、試飲用のジュースを作り直して、

「どうぞ、飲んでみてください!」

 おばさんは、ぼくの差し出したジュースを飲んでくれました。

「あら、おいしい」

 目をまるくして、それから、まわりを見まわすと、

「ねえ、田中さん。これ、飲んでみて」

「まあ、森山さん。なに、なに?」

 ぼくはいそいで、次のジュースを作りました。すると、だんだんと人が集まってきます。あれよあれよといっているまに、レモンのハチミツ漬けもすっかりなくなって、気づいたときには蜂蜜も売り切れ。トラも森山さんも、いつ帰ったのかさえわかりませんでした。

 公園には、もう電灯が灯っています。

 それにしても、こんなにうまくいったのは、森山さんが人を呼び込んでくれたおかげです。いや、それよりも、あのトラ猫のおかげかもしれない。ぼくは、コンビニに入ると、肉まんを二つ注文しました。

 公園に入ると、金木犀が香り、過ぎ去った秋の日が胸の中によみがえります。

そういえば子供のころ、トラ猫の子猫を拾ったことがありました。目やにで両目がふさがれていて、そんな貧弱な子猫を、だれも見向きもしませんでした。ぼくは子猫をほうっておけず、家につれて帰ったのです。

「もとの場所に返してきなさい」

 ぼくは子猫を抱いたまま、いつまでも泣いていました。かあさんは、とうとう観念して飼うことにしてくれたけど、結局、たった二日で子猫は死んでしまったのでした。

「ああ、そうだ!」

 ぼくは思い出しました。あのときの子猫を、ぼくはいつまでもそばにいられるようにと、庭の木の下に埋めたのです。そしてそのときの、その木こそが、花の咲く金木犀だったのです。懐かしさに、幼いころに戻ったような心持で、ぼくは舌を鳴らしました。

「おーい、トラ、トラ」

 ベンチのうしろから、トラは出てくると、背中をなでさせてくれました。

「ほらっ」

 昼間とおなじように、ぼくはトラと肉まんを食べます。

「トラ、うちへ来るか?」

「にゃあお」

ぼくはあのおばさん……森山さんに、一枚のメモを書いてベンチにはりつけました。

『トラを飼うことにしました。蜂蜜屋』

抱きあげると、トラのやわらかな毛が、ぼくのあごをくすぐりました。

コメント: 1
  • #1

    しがみねくみこ (木曜日, 29 12月 2022 16:13)

    猫好きなので。(*^_^*)