山の郵便屋さん

「いいから、遠慮しないで休んでお行き」

「はぁ」

 おばあさんは玄関の戸を開けると、一郎さんの背中を押します。一郎さんは遠慮がちに、上がり口

に腰をおろしました。

 おばあさんはつっと奥へ行くと、小さなお盆を手に出てきました。お盆の上からは白い湯気が上が

り、そこには具だくさんのみそ汁と熱いお茶がのせられています。

「さあ、おあがり」

「ありがとうございます」

 一郎さんは箸を取りました。大根にごぼうに人参。山芋に、ふんだんなきのこ。

 ほくほく熱いみそ汁のおいしいことといったら、からだじゅうにしみわたるようでした。

 そういえば、こんなおいしいみそ汁を食べたことがありました。一郎さんがまだ小さな子どもだっ

たころ。あのススキの原で迷子になって、泣いたことがあったのです。

 そのころはススキの原の手前に、もうひとつ山がありました。今はなくなってしまった小さな山。

子どもたちがわざわざ山を越えて、何もないような原っぱで遊ぶことはありません。一郎さんは山の

中で遊ぶうち、迷子になって山の向こう側……今のススキの原まで行ってしまったのです。

 日も暮れた山や雑木林は暗く、とても入る気にはなれません。その日は今日のような満月で、山と

山とのあいだのその原だけが、ぽっかり照らされていました。

「朝になるまで、ここにいよう」

 ススキの穂のあいだにひざを抱えて座ると、一郎さんのお腹はぐうぐう鳴りました。子どもだった

一郎さんは泣きたいのをぐっとこらえます。そのときでした。

「おーい! おーい!」

 遠く山の上からおりてくる明かりとともに、お父さんの声が聞こえてきました。

「おーい!」

 一郎さんは明かりに向かって、大声をふりしぼってかけ出します。

「おーい! おーい!」

 一郎さんの頬に、我慢していた涙がほろほろこぼれました。

「よかった、よかった」

 お父さんの背中におぶさって家に着くと、いいにおいがしていました。今日と同じ。みそ汁のにお

いです。

「お腹すいたろう」

 お母さんは一郎さんをぎゅうっと抱きしめて、それから温かなみそ汁を何杯も何杯もついでくれたのです。

とんっと、からっぽのお椀を置くと、一郎さんは、

「ごちそうさまでした」

お茶の入った湯飲みを両手につつみました。

(今ではススキの原の脇まで、舗道が通ってるんだもんなぁ)

 何十年も暮らすうち、村はいつのまにか変わっていました。迷子になったころには、ススキの原ま

で舗道が通るなんて、思いもよらないことでした。

「あっ!」

 一郎さんは、我に返りました。その舗道に自転車を置いたまま、ススキの原に入ったことを思い出

したのです。あわてて腕時計を見ると、もう八時をまわっていました。手紙を読み返すおばあさんに

「あの……」

 聞かずにはいられませんでした。子供の頃のように、また迷子になることを思えば。少しくらい恥

かしくても、

「すみません。帰り道なんですが……」

 でもあの山道を、どう説明してもらえばいいのでしょう。舗装された道のように、『三番目の角を

まがって』というわけにはいきません。困っている一郎さんを置いて、おばあさんはぞうりをつっか

けると、外へ出ました。

「あそこの赤い星。あの星がわかるかい?」

「はい」

 赤い星がどうしたというのでしょう。

「あの星に向かって、歩いて行けばいいよ」

 一郎さんは赤い星を見て、それからまじまじとおばあさんを見ると、

「えっと、帰り道なんですけど」

「だからあの赤い星を目印に帰んなさい。迷うことはありませんて。わたしは昔からここに住んでる

んですからね」

 なんとも返す言葉もなく、

「ありがとうございます」

 きつねにつままれたような気持ちになりながら、一郎さんは歩き出します。

「見失っちゃいけませんよー」

 追いかけるおばあさんの声に、

(赤い星、赤い星……)

 心の中でつぶやきながら、

「ありがとうー!」

 一郎さんはいわれたとおり、星に向かって歩いていました。ススキのゆれる音が、さわさわと聞こ

えてきました。上を見ながら歩いていた一郎さんは、ふっとススキの原に出てびっくり。行くときに

は、あんなに時間がかかったというのに、ものの三十分も歩いてはいません。

「……してやられたな」

 おばあさんは山道をぐるぐると、一郎さんをつれまわしていたのです。なぜ、おばあさんがそんな

ことをしたのかはわかりませんでした。たいくつしたおばあさんのいたずらだったのかもしれません

。でも一郎さんにはおばあさんのことが、なんだか憎めませんでした。温かなみそ汁をご馳走になっ

たせいでしょうか。

 おばあさんは手紙の返事を書いていました。

「やれやれ。あのおかたい郵便屋。いつ根を上げるかと思ったけど、感心したね」

 さっき届いたばかりの手紙は、文机の上に置かれています。消印の押された切手は、小さな木の葉

に変わっていました。そんなこととは知らない一郎さんは、ススキの原で、ぽつりと置かれたままの

自転車を見つけます。

 ほっと胸をなでおろすと、自転車にまたがりました。明るい月明りの下で、さわさわゆれるススキ

の音。一郎さんはまた迷子になった日のことを思い出していました。

 そんなことがあってから、十日も過ぎたある日のことでした。宛先不明の手紙が村の郵便局まで戻

ってきたのです。一郎さんはその手紙を見て、「あっ!」

 差出人の名前は山野かの子。あのおばあさんです。一郎さんは手のひらの上の手紙を見つめました

。きっとあの日、配達した手紙の返事です。一郎さんはススキの原の脇に自転車を止めました。黒い

カバンに残った手紙は一通。いちめんのススキを、かきわけ、かきわけ、一郎さんは進みます。

「困ったなぁ」

 雑木林を過ぎ、山にも登ってみましたが、おばあさんの家は見つかりません。

赤い屋根を目印にと

、さがしてみても、

「見つけた!」

 そう思って近づいてみると、色づいたもみじだったりするのです。肩からさげた黒いカバンの中で

、手紙がカサコソとゆれるたび、にんまり笑ったおばあさんが、

「おや、手紙を届けにきてくれたのかい」

 そういって、ひょっこり出てきてくれやしないかと、あたりを見まわしました。

でも、一郎さんは

おばあさんに会うことはできませんでした。赤い屋根の家は、見つからなかったのです。

コメント: 1
  • #1

    しがみねくみこ (土曜日, 12 11月 2022 17:21)

    赤い星は、いつも、月の横にいる気がします。(*^_^*)