蓮の花

 

湖畔に浮かぶ大きな蓮の葉の上を、娘は歩いていました。

 湖から吹く夏の夜風に、長い髪を揺らせながら。

 髪は月夜に照らされて、きらりきらりと、輝いています。

 そして蓮は、娘の足先の触れるたび、ぽっぽっと、ピンクの花を開かせるのです。

 夜釣りの竿に魚のかかっていることにも気づかず、男はただただ娘に見とれました。

 もう手の届きそうなほど娘の姿が近づいたとき、男の竿が魚に引かれ、湖へと投げ出されたのです

 静かな湖畔に、ぽちゃりと、水をはじく音が響き、娘はおどろいて振り返りました。

「おどかすつもりじゃなかったんだ」

 逃げようとする娘の細い腕を、男は思わずつかんでいました。

「どこにも行かないで!」

 月の光に白く照らされた娘の頬が、蓮の花のように色づいています。

 男には、その手を離すことができませんでした。

「どうか、どうか、ここにいてください」

 男の名前は、ショウ。

 娘はレンと名乗りました。

 毎夜毎夜、ショウはレンを待ち、レンも会いに来ました。

 ある夜、ショウはレンの髪をなでながら、

「ぼくの家へおいで」

 けれど、レンは首を横に振ると、また蓮の葉の上を歩いて帰って行ったのでした。

 夏が去り、秋になりました。

 湖には嵐の日がつづきました。

 それでもショウは、打ちつける雨と波の立つ湖畔で、レンを待っていました。

「この嵐の中では、レンも歩いては来られまい」

 そう思っていても、待たずにはいられなかったのです。

 嵐の止むことはありませんでした。

 湖の上で、怒り狂った竜(りゅう)が、嵐を起こしていたからです。

 その大きな竜は、レンの父親でした。

 レンは、竜の娘だったのです。

「人間なんかに娘をやれるものか」

 けれど、レンはショウの子供を身ごもっていました。

 止むことのない嵐に、人々は悩まされました。

「このままでは、大変なことになってしまうぞ」

 そんなある夜、湖畔から帰ったショウの家の戸を、たたく音がしました。

 嵐の打つ音かもしれない。

 けれど、ショウはいそいで戸を開けたのです。

「やっぱり……。来てくれたんだね」

 そこには雨にほつれた髪のレンが、泥だらけの素足で立っていたのです。

 レンはショウの家で、子供を産みました。

 ショウは、その喜びに胸を震わせました。

 けれど、嵐はますますひどくなるばかり。

 このままでは、暮らしてもいけません。

 

「どうか、この子を」

 レンはいい残すと、湖に向かいました。

「待ってくれ!」

 追いかけようにも、ショウに蓮の葉の上を歩くことなどできません。

 嵐に揺れる蓮の葉の上を、レンは走りながら、その姿を竜に変えたのでした。

「竜の娘だったのか……」

 湖上には竜巻が起こり、ショウへと向かってきます。

 ショウは、我が子を胸に、山へと逃げのびたのでした。

 山の上から、湖上で、もつれ合い、絡み合う二匹の竜が見えました。

 波は高くうねり、眼下の家々を飲み込み、やがて力尽きた二匹の竜は、湖へと落ちていきました。

 日が昇り、静かになった湖畔に、ショウは立ちました。

 もう一枚の蓮の葉も残ってはいません。

「おーい!」

「見てみろー!」

 人々の喜びの声が、ショウの耳にも届きました。

 そこには、新しい瓦と、流木と、土が流れ着いていたのです。

 これで、波に飲まれた家々を、元に戻すことができます。

 その瓦が竜のウロコであることも、流木が骨であることも、そして土が肉であることも、誰にもわかりませんでした。

 

 静かな湖に、いつしか蓮の葉が、湖畔をまたおおいます。

 その蓮の花の咲くたびに、ショウはレンを思い描いたのでした。

 そうして我が子に、語って聞かせたのです。

 美しく強い母親のことを。

 青々と澄んだ湖の水が、ほほえむようにさざなみを立て、吹く風は、その子の髪をやさしくなでていきました。

コメント: 1
  • #1

    しがみねくみこ (木曜日, 29 12月 2022 15:42)

    物語っぽくて、好きな作品です。(*^_^*)