夕子の部屋の出窓には、たくさんの小さな貝殻が並べられていました。
その中の黄色い貝殻を手に取ると、
「さっちゃん、元気かな」
それは浜で、仲良しのさっちゃんと砂山を積み上げたとき、見つけた貝殻。ふたりで競い合うように、何度も砂を積み上げては、高い高い砂山を作ったのです。
「さっちゃんに、会いたいな」
生まれたときから住んでいた海のそばを離れ、夕子は遠い山の中に暮らしていました。
出窓に並べられた小さな貝殻のひとつひとつには、まるで日記のように思い出がつまっていたのです。
中でも青い巻貝は特別でした。
夕暮れの砂浜を、犬の散歩に歩いたとき、
「夕子、きれいな貝殻だぞ」
お父さんが見つけて、拾いあげてくれたのです。
大きな太い手の中から、小さな夕子の手の中へと、青い巻貝はこぼれるように落ちました。海のように青く美しい貝に、
「これ、ほんもの?」
夕子は、お父さんを見上げます。
そのときのお父さんの笑い声、つないだ手のぬくもり、そんな思い出が青い巻貝の中につまっていたのです。
夕子は海が好きでした。
そして海よりも、お父さんが好きでした。けれど、お母さんも大好きだったのです。
大好きなお父さんとお母さんが、
「これからは、離れて暮らすんだ」
「別れることになったのよ」
そんなことをいわれても、夕子に飲み込むことなどできません。海から離れることも、何よりお父さんと離れて暮らすことも。
けれど、泣いているお母さんを、ひとりぼっちにするなんて、できるわけがないのです。
夕子は思い出のつまった貝殻を手に、海から引き離されていきました。お母さんの前では、お父さんのことを思い出すことでさえ、いけないことのように感じます。
「お父さんに、会いたい」
その言葉を夕子は、いつもいつも、そっと胸にしまっては、打ち消すようにしてきたのです。
月の明るい夜。窓辺の貝殻は、きらきらと光を反射して、輝くように見えました。
「会いたい……」
「会いたい……」
夕子は驚いて、目を覚まします。
「会いたい……」
「会いたい……」
その声は窓辺の貝殻の、ひとつひとつから聞こえてくるのです。飛び起きた夕子は、きちんと並べた貝殻を、あわてて引き寄せました。腕の中から、耳もとへと、
「会いたい……」
「会いたい……」
心の中をだれかに見透かされた気がして、指先が震えました。
夕子はガラス瓶の中に貝殻を詰め込むと、机の引き出しの一番奥へと隠してしまったのです。
もうその声は、聞こえてはきません。
窓辺の貝殻は、引き出しの中。
今までなら楽しかったころの日記をめくるように、貝殻を手に取ることもできたのに……。
ガランとした出窓を、夕子はぼんやりと見つめました。毎晩、ベッドの上で寝返りをうちながら、貝殻の声を思い出していたのです。
「会いたい……」
「会いたい……」
夕子は決心しました。
思いきって引き出しを開けると、貝殻の入ったガラス瓶を取り出します。
胸の中にぎゅうっとガラス瓶を抱くと、思い出がトクトクと音を立ててよみがえります。
貯金箱の中から、ありったけのお金をポケットにつめると、夕子はバスに乗りました。
見つかりはしないかと、どきどきしながら。
電車に乗り換える間も、ガタゴトと動き出す電車に揺られている間も、見つかって連れ戻されはしないかと、小さく小さくなっていました。けれど、懐かしい駅に降り立ったとき、夕子の胸は解き放たれたのです。
「砂浜へ」
夕子は、真っ直ぐに歩きます。
「あと少し、もう少し」
目の前に海が開けました。
けれど、砂浜はなくなっていたのです。
真新しい白いコンクリートが、砂浜を埋め尽くしていたのです。
海の水にも触れられないその場所に、夕子は立ち尽くしてしまいました。
ずっとずっと、立ち尽くしていたのです。
気がつくと赤く染まった海に、夕日が落ちていきます。夕子は思い出したかのように、ガラス瓶を取り出すと、
「会いに、来たんだよ」
そのふたを、そっと開きました。
「あっ」
貝殻がひとつ、宙に浮いては、ポトン。
またひとつ、宙に浮いては、ポトン。
海へと落ちていくのです。
「みんな、帰っていくんだね」
とうとう、最後の青い巻貝が宙に浮かびました。
「待って!」
夕子は巻貝を両手でつかみます。
「これだけは……、これだけは……」
ガシャンと大きな音を立て、手から離れたガラス瓶が、足元に砕け散りました。
「夕子!」
お父さんの声がしました。
「夕子!」
お母さんの声もします。
振り返る夕子の前に、お父さんとお母さんが立っていたのです。
「どうして?」
夕子には一瞬、時がさかのぼったかのように思えました。
けれど、やはり違うのです。夕子の立っている場所は砂浜ではなく、埋め尽くされたコンクリートの上なのですから。
そのことを確かめるように、白いコンクリートを見つめる夕子を、お父さんの腕とお母さんの腕が、抱きしめていたのでした。
夕子の部屋の出窓には、青い巻貝だけが置かれていました。
「会いたい」
けれどもう、その言葉は、胸にしまわなくていいのです。
夕子の家は山の中でも、あの場所に砂浜がなくなってしまっても。会いたいときには、海に出かけていくのです。お父さんに会いに。
青い巻貝を忘れないよう、手に持って……。
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しがみねくみこ (土曜日, 22 4月 2023 17:40)
好きな作品なので、直したりせずに、アップしました。