ウミガメ

あれはもう、二十年も昔。ぼくが二十歳の頃のことだった。

 大学の夏休みに、ぼくは自転車での一人旅をして、そこであの不思議なおばあさんに出逢ったのだ

 そこは船で渡った、遠くの島。

 輝く海の色に目を奪われ、ぼくは自転車を置いて、砂浜を歩いていた。

 少し傾いた日の光が、海の上に光の帯を放っている。静かな波の音が響いている。

 小さな砂浜には、海水浴客もなく、おばあさんがひとり、小屋の陰に椅子を置いて、座っているだ

けだった。

「こんにちは!」

 その頃のぼくは、だれにでも挨拶をした。

 そしてそのおかげで、ぼくの一人旅は、ずいぶん充実したものになっていた。

 たくさんの人との出逢い。

 おばあさんは、ぼくの元気な声に、こちらを向いてくれた。

「いい風ですね」

 海から吹く風が、汗をさらっていってくれる。

おばあさんは、ぼくを見て、こくんとうなずくと、

「どこから来たんだい?」

 ぼくは、遠い街から、自転車で旅をしてきたといった。おしゃべりなぼくの話を、おばあさんは、

気長に聞いてくれた。

 一通りしゃべり終わって、小さな沈黙に波の音が再び大きくなると、おばあさんは、

「この島にゃ、なんにもないけど、なんだったら、旅のみやげに、あたしの話を聞いていくかい?」

 と、ぼくの顔をのぞき込んだ。

「はい!」

 願ってもないことだった。

 移動した陰の中に、おばあさんが椅子を動かして座りなおす。ぼくはその横で、砂のつくのもかま

わず、膝を立てて座る。

 長い話の予感がした。

「あたしの家は、代々、この島に住んでいてね。これは、あたしのおばあさんの、そのまたおばあさ

んの話さ」

というと、おばあさんは、遠くの海を眺めた。

「その頃、そのおばあさんのおばあさんは、まだ、あんたとおんなじくらいの若い娘でさ。お父さん

とふたりきりで暮らしていたそうだよ……」

 ある日、そのお父さんが、一人の若者を連れて家に帰ってきた。

「砂浜で、倒れていたんだ」

娘と同じくらいの年齢で、腕に怪我を負っていた。服はずぶ濡れ。

娘は、男に着替えをさせ、傷の手当てをした。島では見かけない男だった。

「船で遭難でもしたのかしら……」

 でも違った。

 男は、ウミガメだったのだ。

 漁の網にひっかかって怪我を負ったウミガメが、人の姿を借りて傷を治そうと思ったのだ。

 ところがウミガメは、娘に恋をしてしまった。

そうとは知らない娘も、男に恋をした。

 ふたりは夫婦になり、ウミガメは人として暮らすようになった。

「けどさ、人とウミガメじゃあ、寿命が違うんだわ。しかもそのウミガメの寿命は、三百年もあった

んだと」

「三百年?」

 ぼくは目を見張った。

「そうさ、三百年。それで、娘がおばあさんになって逝っちまうと、男はウミガメに戻って姿を消し

たそうさ。そんときには、子どもや孫たちもいたらしいけど、三百年も人として生きてはいかれない

よね」

 海に戻ったウミガメは、思い出のあぶくばかり食べて暮らしていた。

 海の中は、あまりにも静かすぎた。

 なにをするでもなく、息をついでは、海の底に潜る。その繰り返しだ。

 人として生きる。

そこには、辛いことも、苦しいこともあった。

妻の最期を看取る。

これほど悲しいことはなかった。

 それでも人として暮らしていた頃は、毎日のように、なにかしら新しい出来事があって、夢や笑いが

、いつもつきまとっていた。

 妻との思い出。

 子どもとの思い出。

 友人たちとの思い出……。

 それらがため息になり、あぶくとなって、海の中を浮かんでいく。

 それを追いかけては、パクリと口に入れる。

 そうして二十年が過ぎ去った。

 人になるまでの二十年は、あっという間だったが、一度、人になって、ウミガメに戻ってからの二十

年は、とてつもなく長く感じられた。

「そうだ。あの砂浜に、もう一度、行ってみよう」

 ある日、ウミガメは、思い立って、砂浜を目指した。

 と、向こうから、大きなかたまりが、ゆっくり沈んでくるのが見えた。

 ウミガメは、それがなにかを確かめようとして、おどろきに身を震わせた。

 それは少女だった。

 もう息をしていない少女。

 でもウミガメにはそれが、自分の血をひく娘だということがわかった。

 少女は貝を追いかけ、深みに入り、そのままおぼれてしまったのだった。

 ウミガメは、息つくことも忘れて、少女を砂浜へと押し返した。

 浜へ着くと、ウミガメは人の姿になり、少女の胸を押し、口に息を吹く。

 砂浜に寝そべった少女は、それでも息をしなかった。

「ああ!」

 渾身の力を込め、男が少女の手を握った。

 そのとき、雷に打たれたような衝撃が、男と少女を襲った。

「これで、いい……」

 男がうなだれたとき、少女は息を吹き返した。

 男が訊く。

「おまえは、だれの娘なんだい?」

 少女が答えると、男はいった。

「じゃあ、おまえは、わたしのひ孫の娘だ」

「えっ?」

 男は、そのわけをみんな、娘に話してくれた。

「つまり、あたしが、あんたに話したことをさ」

 おばあさんは、ぼくを見下ろすと、にんまり笑った。

「で、ウミガメに助けられた娘が、あたしというわけなんだ。あれはちょうど、あたしが十二の歳だ

った。あたしのおじいさんのおじいさんが、ウミガメだったってわけさ」

 本気なのか、からかわれたのかわからなくて、ぼくは言葉を失った。

「あのとき……、あたしは覚えちゃいないんだけど、雷に打たれたようになったときにね。あたしゃ

、ウミガメの命をもらったんだってさ。その男がいってたんだ。……残っていた二百年分のね」

「二百年?」

「そうさ、二百年。十二の歳にに二百年の命をもらったんだから、あたしの寿命は、二百十二歳って

ことになるね」

「まさか!」

「嘘だと思ってるだろ?」

 ぼくは、鼻の下をかいた。

「ええ、まぁ……」

「あたしだって、あの男にからかわれたんだと思っていたよ。でもこの歳まで生きていると、もしか

すると本当だったのかもしれないと思えてきてねぇ」

「あの……、おいくつなんですか?」

「あれから、ちょうど百年。百十二歳だよ」

 ぼくはびっくりした。とてもそんな歳には見えない。髪は銀髪だがふさふさで、肌だってつやつや

している。話だって、しっかりしていた。

 その夜、ぼくは、おばあさんの家に泊めてもらうことになった。

 おばあさんの家には、子どもも孫も、ひ孫まで住んでいて、おばあさんが百十二歳だというのが本

当だと証明してくれた。

 おばあさんとは次の日に別れたけれど、ぼくはいつまでも、おばあさんのことが忘れられなかった

 あのおばあさんに、いつかもう一度、会いたい。できれば、あの話が本当か嘘か、確かめたいと思

っていた。

 そうてとうとう、その日がやってきたのだ。

 おばあさんが今も元気でいるのか、それさえもぼくにはわからない。

 船に乗って、ぼくは遠くの島へと渡る。

 夏の過ぎた海には、心地よい風が吹きわたっていた。

 海の色は、あの日と変わらない。

 船着き場には、新しい店が建っていたけど、少し歩くと、風景はあのときのまま。

「ごめんください」

 と、あの家を訪ねるには、少し勇気が足りなくて、ぼくは先に、砂浜へと向かった。

 波の音が聞こえる。

 ぼくはあの小屋を目で探して、そこに建て替えられた小屋と、その陰にやっぱり椅子を出して座っ

ているおばあさんを見つけて、目を疑った。

「まさか……」

 おばあさんの姿は、あの日のままだった。

 足を止めたぼくに振り返ったおばあさんが手招きをする。

 おずおずと、近づいたぼくに、おばあさんはにんまりと笑って、

「もう来るころだろうと思ってね。……待っていたよ」

 おばあさんは元気だった。

 ふさふさの銀髪に、つやつやした肌も変わらない。ほんの少し痩せて、しわも増えたようだけれど

……。

 ぼくは、おばあさんの家に招かれた。

 向かい合って熱いお茶をすすりながら、一通りさし障りのない話をしたあと、ぼくはいった。

「どうして、ぼくが来るって、わかったんですか」

「そりゃあ、ウミガメの血をついでるからねぇ」

 ぼくは、ドキリとした。

 懐かしいウミガメの話。

 おばあさんの口から、またその言葉を聞いたのだ。

「あんた、結婚して、子どもはいくつになったんだい?」

「七歳と四歳です」

「そりゃあ、まだまだたいへんだ」

「ええ、ほんとに……」

 一瞬、ぼくの心が沈む。

 それを見透かしたように、怖い顔でおばあさんがいう。

「だめだよ」

「えっ?」

 まるで襲いかかるように、おばあさんがぼくの手をつかんだ。

「まだ逝っちゃだめだ」

 熱いものがからだじゅうを走り抜けた。

雷にでも打たれたかのように……。

そう思ったのは、ずいぶんあとになってからだ。

ぼくはしばらく呆然としていた。

「これでもう、なんにも心配いらない。あたしはもう充分生きたからね。まるでウミガメさ。だから

、なんにも心配いらないんだよ」

 ぼくはその日も、おばあさんの家に泊めてもらい、そしておばあさんは次の日の朝、亡くなった。

 老衰。

 おばあさんが亡くなったのは、そのせいなのだとだれもがいった。

 それを信じていないのは、ぼくだけだった。

 ぼくはおばあさんを見送るまで、その島に留まって、それから家路に就いた。

 何日か過ぎて、病院に行くと、余命半年と告げられていたぼくの病気は、すっかり良くなっていた。

 医者は奇跡的だといったが、ぼくはあまり驚かなかった。

 ぼくは、おばあさんのウミガメの話を、そのときにはすっかり、本当だと信じていたからだ。

コメント: 2
  • #2

    しがみねくみこ (水曜日, 24 1月 2024 08:13)

    昔に書いた作品です。

  • #1

    しがみねくみこ (月曜日, 10 10月 2022 18:01)

    こちらも大人の童話ですね。(*^_^*)