夢のあとに

天井がたわみ、みしみしと家の悲鳴が聞こえる。

「ええいっ。いまいましいね」

 ハナは細く小さくなった足に、靴下を重ね履きしながら、誰とはなしに毒づいている。夫が亡くな

ってから、屋根の雪下ろしはハナの仕事になった。近所に済む男集たちは歳取ったハナを気づかい、

手伝おうと声をかけてくれるが、ハナは受けつけない。

「誰が人の世話になどなるものか」

 止めるのも聞かず、ひとりで屋根にのぼり雪を下ろす。

 身を粉にして働いて、育て上げた子供たちが三人とも都会へ行って帰らなくなってから、ハナは近

所づきあいをやめた。家にひきこもり、夫にも辛くあたった。

 ハナの口からは恨み言しか出てこない。子供たちは電話もしてこなくなり、ますますハナは夫に辛

くあたる。やることなすことに文句をつけ、なじる。わざと夫の嫌いなものばかり食卓にのせる。洗

濯物も、夫は自分でするようになった。ハナが臭いといって触ろうともしないからだ。

 それでもハナの気持ちを察していたのか、夫はいつも笑い泣きをこらえたようなおかしな顔をして

、ハナのいうことにいちいちうなずいていた。ひきこもったハナの代わりに買い物までしてくれた。

 夫が亡くなったときでさえ、

「あんたのあとなんか追ってやるもんか」

 ハナは棺に向かって毒づいた。子供たちは早々に都会に戻った。夫ももういない。ハナはひとりだ

 それからは何でも自分でやった。それが例え男の仕事でも。雪下ろしであっても。

 冬に入って歳を取ったからだは、あちこちが痛み出した。特に重い雪下ろしのあとは、何日も動け

なくなるほどだ。そんなハナをあざ笑うように、その年は雪が多く降った。

「いまいましい、いまいましい」

 ハナは念仏を唱えるように繰り返し、厚着をする。屋根の上で脳溢血でも起したら、それこそ近所

の笑いものだ。それ見たことかといわんばかりのいくつもの顔が、ハナの目の奥に浮かんでくる。そ

こでハナはよしとばかりに力が入る。その勢いで、なんでもこなしてきた。

 だが今日は、その力が入らない。二、三日前から、どうもからだの調子が悪い。風邪かもしれない

。しかし雪は待ってはくれないのだ。このままでは、家が雪に押しつぶされてしまう。

 ハナは手のひらで頬をぬぐった。その手が涙で濡れていた。

「なにこれ?」

 ハナはびっくりして、もう片方の手でもう片方の頬もぬぐった。やっぱり濡れている。

「ああ、情けない」

 ハナはころころと厚着をしたまま、万年床の中に転がった。窓は雪明りに、まぶしいほどに輝いて

いる。

 このまま雪につぶされてしまおうか。

 ぼんやり窓を見ながら、ハナがそう思ったとき、窓の外を大きな暗い影が下に向かって落ちた。そ

のとたん、どどーんと響き、家が揺れた。

「雪?」

外は寒かった。屋根の雪が勝手に落ちるとは考えにくい。と、思う間もなく屋根を歩く音が聞こえ

、次の雪が下ろされる。

「誰が勝手に!」

 起き上がってひざをついたものの、今日のハナには飛び出していく気力もなかった。

「まったく頼みもしないのに」

 そのまままた転がってふとんをかぶると、さっき着たばかりの服をぬいだ。

「私は知らないよ。私は寝てたんだから。誰かが雪下ろしをしてただなんて気づきもしないんだ」

 やれやれ、ふとんの中は心地よかった。雪につぶされる心配もないとわかると、なおさらだ。ハナ

は深い深いため息をつくと、そのままほんとうに寝てしまった。

 目を覚ますと、家にはいつの間にか明かりが灯っている。奥の台所には人の気配がして、おいしそ

うな匂いまで漂ってくる。

「母さん、目が覚めた?」

 ハナは、ぎょっとした。まだ小学生だった頃の娘の由香里が戸を開けて、ひょっこり顔をつきだし

たのだ。

「あっ、ああ……」

 返事をしてしまってからハナは、そうか、夢か、と気がついた。それにしても懐かしい。今では電

話もよこさなくなった由香里にも、こんな頃があったのだ。

「今日は母さんの具合が悪いから、雑炊にしたよ。今、運ぶからね」

「高志は?」

 由香里が小学生なら、高志は中学生のはず。

「兄ちゃんなら、先にお風呂に入ってる。今日は雪下ろしだったからね」

 そうだそうだ、あの頃は父ちゃんが出稼ぎに行っていて高志が雪下ろしをしてくれたんだ。ハナは

目を細めた。目を細めたまま、

「美鈴は?」

 と、聞くと、

「さっきテレビを見ながら眠っちゃった」

「ふとん、かけてやったかい?」

「うん」

末っ子の美鈴は、まだ幼稚園くらいだろう。何もかも昔のままだった。湯気をたてた雑炊を、由香

里が枕もとまで運んでくれた。この子は面倒見のいい子だった。それなのにどこで何を間違ってしま

ったのだろう。熱い雑炊を口に運びながら、ハナは思い出していた。

「おや、この雑炊ときたら味までするよ」

 ハナは目を見開いた。夢の中でものの味まで感じたのは初めてのことだった。

「母さん、具合どう?」

 風呂あがりの高志がシャツのままで顔を見せる。

「さっさと、服を着ないと風邪ひくよ」

 叱りながら、この子はやさしい子だったと思い出す。

「母ちゃん、母ちゃん」

 目を覚ましたのだろう。美鈴がハナのふとんの中にもぐりこんできた。

「おやまあ、足が冷たくなってるよ」

 太もものあいだに、小さな足をはさんでやりながら、この子はいつまでも甘えん坊だったと思い出

しハナは美鈴を引き寄せる。

 こんなに幸せなときもあったのに。ハナは涙をこらえた。何がいけなかったんだろう。

 子供たちは三人とも、いつのまにかハナのそばに集まっていた。そうだ、今のうちに……。ハナは

そう思って、三人に向かうと、

「大人になっても、父ちゃんや母ちゃんの面倒を見ておくれよ」

「あたりまえだよ」

 三人ともうなずいて請け負ってくれる。そういえばこんな日があったような気がする。確かに子供

たちは約束してくれていた。

「いつまでも、母ちゃんのそばにいてくれるかい?」

「母ちゃんもそばにいてね」

 美鈴がハナの首に抱きつく。ああ、こんな日も確かにあった。なのにどうして……。

 玄関の戸の開く音がする。

「ただいま」

「父ちゃんだ、父ちゃんだ!」

 出稼ぎに出た夫は、子供たちへのおみやげを手に、時々、帰ってきた。少しでも休みが取れると、

子供たちの顔が見たくてたまらなくなるのだ。旅費がもったいないといっても聞かなかった。玄関で

子供たちがおみやげをせがんでいる。

「ごめんよ。今日はないんだ」

「ええ! どうして」

 何かあったのかと、ハナも不審に思って耳を澄ます。夫は、ごめんごめんと謝りながら、

「道でたぬきの子に会ってな。あんまりひもじそうな顔をしているものだから聞いてみたら、親が死

んで食べるものもないっていうんだ。それで、つい、あげてしまった。その代り、この恩は必ず返し

ますっていってたぞ」

 たぬきなんかにだまされてと、ハナがあきれていると、

「そうか」

「それじゃあ、しかたないね」

「たぬきの子にあげて、よかったね」

 子供たちの声が聞こえてくる。そうだった、そうだった、こんな日もあったと、ハナはうなずく。

こんないい子供たちが、ほかにいるものかとハナは思ったのだ。この子たちさえ幸せになってくれさ

えしたら、ほかには何もいらない。そう思ったのだった。

 ハナはふとんの中でもう一度目を閉じた。そうしていると眉間に寄っていたしわも取れて若返って

いくような気がした。

「あの子たちさえ幸せにしているのなら、私はもう何もいらない。父ちゃん、私、父ちゃんのところ

へいって、はやく謝らなくちゃ。父ちゃん……」

 ハナは夫のあとを追って逝った。

 次の朝、ハナの家の電話が虚しく鳴り響いた。由香里と美鈴が交互にかけていたのだ。

 玄関の戸が開き、高志が入ってくる。

「母さん、いる?」

 ハナはふとんの中で笑みをもらしながら、冷たくなっていた。

「まさか……。母さん!」

 高志は駆け寄ると、ハナの枕もとに食べかけの雑炊を見つけた。

「あの夢と同じだ」

 子供たちは、三人とも同じ夢を見たのだった。

 雪が降り出した。家の裏につづくたぬきの足跡は、白い雪に消えていった。

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  • #1

    しがみねくみこ (月曜日, 10 10月 2022 18:00)

    こちらも大人の童話です。