少女はずっと座っていました。
山の中のオルゴール館。
アンティークなオルゴールにかこまれた部屋と、その奥に並ぶからくり人形。からくり人形のその前に、少女はずっと座っていたのです。
オルゴール館のドアを開けると、
「いらっしゃいませ」
蝶ネクタイの案内人が、お客を案内してまわります。まるでぜんまい仕掛けの人形のように動くその姿に、
「くすくす」
小さな笑い声の起こることもありました。
オルゴールは白い手袋をした案内人の手にかかり、遠い昔の曲を奏でます。順番に、ひとつ、またひとつと……。
複雑で精巧なオルゴールの音に、お客たちは聞き入りながら、アンティークの世界へと誘(いざな)われます。
「どうぞ、こちらへお掛けください」
からくり人形の前に置かれたイスに座り、その仕掛けを、まのあたりにするのです。
何体か並んだ人形の中で、動くことのできるのは、たった二体。
それでも、お客たちの目の輝きに、満足げな案内人が、紹介を始めます。ふっくりとした大きな満月の顔の人形は、ムーン。
ムーンは案内人が火をつけた葉巻を、愛嬌のある顔でふかせます。いかにもおいしそうな顔をしてみせるムーンは、今にも話しかけてきそうです。
木彫り細工のほどこされたみごとな机の前で腰掛けている人形はアーノルド。アーノルドはフランス人形の貴公子のようです。伏し目がちに、机に向けられた目に、長いまつげ。ギィッと、ぜんまいの音が聞こえ、アーノルドが動き出します。一枚の小さな白い紙に、絵を描くのです。そこからは遠い、海に浮かぶ船の絵を。お客たちは感嘆の声をあげました。
「人形が描いたなんて、思えない!」
山の中のオルゴール館を、訪れるお客は多くはありません。たまに来るお客たちが、ドアを出ると、ひっそりと静まりかえります。案内人はドアの前。姿勢も崩さず次のお客を待っています。少女はそれでもアーノルドの前に座ったまま。まるで人形のように、じっと動きませんでした。
山が赤い夕日に照らされます。オルゴール館も、もう閉館の時間。案内人は、ドアに鍵をかけ、照明を落とします。それからアーノルドのそばへ来ると、背中を向けて立ちました。
と、驚いたことに、アーノルドの手が勝手に動き出したのです。案内人の背中へと、その手はしなやかに伸びます。ギィッ。
ぜんまいの音が静かなオルゴール館に響き、案内人は動かなくなりました。
そう、案内人は人形でした。それもアーノルドの作った……。
そっと席を立ったアーノルドは、動かなくなった案内人の横を通り抜け、少女のほうへと向かいました。人形とは思えないほど、しなやかに動きながら。
「帰ってきたんだね」
「ええ」
アーノルドは、少女の横に座ります。少女はアーノルドの肩に額を載せると、こらえきれなかったように泣きだしました。その瞳から、涙は出ません。そう、少女も人形だったのです。
「おじいさんは? おじいさんは、どこへ行ったの?」
少女が訊ねます。アーノルドはがっくり肩を落とすと、
「亡くなったんだ」
もう何十年も、昔のことでした。
少女の人形はマリア。アーノルドのとなりに、並んでいました。動かなくなってしまったアンティークの人形のほかは、みんな、おじいさんに作られた人形たち。ムーンも、アーノルドも、マリアも。
その頃、オルゴール館の案内をしていたのは、おじいさんでした。アーノルドもマリアも、勝手に動くことなどありません。時折訪れるお客の前で、からくりを見せる人形でした。
裕二は数少ないオルゴール館のお客のひとり。踊る人形のマリアに魅せられ、
「すみません。この人形の絵を描かせてもらえませんか?」
それが始まりでした。裕二は絵描きだったのです。
「それなら、動かさないほうがいいですね」
「いえ、踊っているところが描きたいんです」
マリアの絵を描くために、何度も何度も、裕二は通いました。そのたびに、おじいさんはマリアの背中のねじを動かします。マリアは静かに踊り始めました。薄桃色のドレスの中で、バレエシューズを履かされた足は同じステップを繰り返し、細く白い手を、上に横にと揺らせながら。キャンバスに向かい、マリアをじっと見つめる裕二。
ある日、とうとう、マリアのねじは壊れてしまいました。ほかの人形たちの見守る中を、裕二の訪れる日はマリアだけが、何度もねじをまわされるのですから。
「修理をしなくては……」
おじいさんが、マリアを作業部屋へ運ぼうとした時、
「こんにちは」
裕二がドアを開けました。
「いらっしゃい。せっかく来てくれたんだが……」
その時です。壊れてしまったはずのマリアが、静かに踊りだしたのは。何も知らず、裕二はキャンバスに向かいます。おじいさんは、そのようすを黙って見つめました。
マリアは薄桃色のドレスの中で、同じステップを繰り返します。細く白い手を、上に横にと揺らせながら。その頬は高揚するように、輝いて見えました。
「ありがとう」
そういって、ドアを出て、歩き出す裕二を見送りながら、
「ついて行けばいい」
遠い目をしたおじいさんがいいました。
その言葉に、はっきりとマリアは目を輝かせたのです。
「いいよ、ついて行けばいい」
マリアは、いそいでドアを出ました。薄桃色のドレスをひるがえし、裕二を追いかけて。山に続く道を踊るように駆けていったのです。
「マリアは、もう帰ってこないかもしれないね」
アーノルドの肩に、おじいさんはやさしく手を載せました。
その時、アーノルドが悲しそうに目をふせたことを、おじいさんは知りませんでした。
マリアがいなくなっても、気づくお客はいません。山の中のオルゴール館に、何度も足をはこぶお客はいないからです。ムーンは葉巻をふかし、アーノルドは絵を描いていました。
「ぼくだって、マリアの絵が描きたかった……」
悲しい瞳のアーノルドに気づいていたのは、ムーンだけ。灯りの消えた人形館で、
「あきらめろよ」
「いやだ。ぼくは、待ってるんだ」
おじいさんが魂を吹き込んだ人形たちが、生きていること。それは、作ったおじいさんでさえ、わかってはいませんでした。
「マリアは特別な人形だったんだな……」
そう思っていたのです。
月日は流れ、やがておじいさんが息を引き取ると、オルゴール館は山の中に取り残されました。
「もう、おしまいさ」
ムーンが残り少なくなった葉巻をくわえます。
「おしまいじゃないさ」
アーノルドは作業部屋へ入ると、人形を作り始めました。何年もかけて案内人の人形を作ったのです。
人形は完成しました。アーノルドはオルゴール館のホコリを払い、人形のねじをまわします。
「いらっしゃいませ」
ドアの前に、案内人が立ちました。オルゴールは白い手袋をした案内人の手にかかり、遠い昔の曲を奏でます。そのひとつひとつに聞き入りながら、お客たちはアンティークの世界へと誘われていきました。
アーノルドは、おじいさんのいた頃のように、机の前に座っていました。
けれど、マリアは帰ってはきません。
アーノルドは毎日、海に浮かぶ船の絵を描きながら、マリアのことを待っていたのです。
「おじいさんも、亡くなってしまったのね」
マリアはアーノルドの肩から、額を上げると、その瞳をアーノルドに向けました。
「……裕二も、亡くなってしまったの。あんなに幸せだったのに、ずっと一緒にいられると、思ってたのに」
アーノルドは立ち上がると、オルゴールを奏でます。やさしい曲が、オルゴール館をつつみこむように響きます。その音楽もマリアには届かないのでしょうか。
「人間は歳を取ると、死んでしまうものなのよ」
「そうだね」
「人形は死なない。生き続けるんだわ」
「ああ……」
ぼくは待っていたんだよ。その言葉をアーノルドは飲み込みました。
「私の壊れたねじ、なおせる?」
「もちろんさ」
アーノルドは作業部屋で、懸命にマリアをなおしました。マリアの背中を見つめながら、アーノルドの胸は、どれほど高鳴ったことでしょう。ねじは、なおり、
「ありがとう」
マリアは静かに踊り始めます。アーノルドに見つめられながら。
それはまるで、遠い昔に戻ったかのようでした。おじいさんもいた、あの頃。薄桃色のドレスの中で、マリアの足は同じステップを繰り返し、細く白い手を、上に横にと揺らせながら。静かな山の中のオルゴール館で、幸せだったあの頃……。
踊りが終わり、静まりかえったオルゴール館に、マリアの凍るような冷たい声が響きます。
「お願い。私のねじを止めて。そして、もう二度と私を動かさないで」
人形のアーノルドの目から、涙はこぼれてはきません。
「お願いよ。あの人のところへ行きたいの!」
「……うん」
アーノルドは震える手で、ねじを止めました。
永久に。
葉巻をふかしながら、そのようすを黙って見ていたムーンが、
「おれも、そうしてくれよ」
「……うん」
ムーンのねじも止めてしまうと、アーノルドはひとりきり。アンティークのオルゴールを、ひとつひとつ順番に奏で、机の前に座りました。
アーノルドは、最後の絵を描きました。
船の絵ではなく、マリアの絵を。
目の前で動かなくなったマリアを、待ちつづけたマリアの姿を、心を込めて描きました。
「ぼくは絵描きには、かなわないんだ……」
自分の背中に手をまわすと、アーノルドは最後の力でねじを止めました。
しばらくすると、館の中に白い煙が立ち込めました。
ムーンの最後にふかした葉巻が、くすぶったまま、床に落ちていたのです。
だれも、その火を消せるものはありません。山の中のオルゴール館は、真っ赤な火を吹いて山を照らしました。
すべてのアンティークのものたちの物語と一緒に、オルゴール館も消えていったのです。
永久に。
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しがみねくみこ (日曜日, 25 9月 2022 20:39)
実際にあるオルゴール館をモデルに行って、浮かんだお話です。