雪が舞う

「もう、おしまいだ」

赤い血で染まった雪を見つめ、きつねはうなだれた。

まだ若い、娘のきつねだった。

今年初めて降り積もった雪に、目をしばたたき、きつねは一目散に走り出したのだ。

雪は何もかも、音さえも消し去って、あたり一面、白一色に染めていた。

吐く息までが白い。

荒い息を吐くたびに、ますます濃く、白が重ねられる。

自分までが白くなり、世界とひとつになる。

ところが、それはちがったのだ。

鋭い金属音。

 きつねはわなにかかった。

 うしろ足に食い込む金属の牙。

 つながれたくさりは地中深く打ちつけられ、逃げようとすればするほど、牙はかたくなに口をとざ

す。

雪はすべてを消すのではなく、隠すのだということを、きつねはそのときになって、初めて気づい

た。

絶望の果てに、きつねはまぼろしを見たのだと思った。

こちらに向かって歩いてくる男。

その男の姿が、一瞬、きつねの姿に変わったのだ。

見たこともない銀色のきつね。

「まさか! 人がきつねに化けるなんて」

 男はすぐさままた、人の姿に戻った。

 陽射しにとけだした雪をざくざく鳴らし、男が近づいてくる。

 きつねは威嚇した。

 うなり声をあげ、牙をむいた。

「心配ない」

 男が発したのは人の言葉ではなく、きつねの言葉。

「ちがう。この人は、きつねなんだ」

 男はあたりを見まわした。

人のいないことをたしかめると、きつねの足に食い込んだわなをはずした。

上着を脱いできつねをそれでくるむ。

山とは反対のほうに向かって、男は歩き出す。

きつねはおどろきと、そして安堵の中にいて、逃げ出す気力は失せていた。

「匂いまで人に化けてる……」

 男の胸の中で目をとじると、きつねは大きく息を吸った。

 男は自分の家に、きつねを連れ帰った。

 そこは人の住む家。

 屋根があり、壁があり、暖炉があり、そして妻がいた。

「あなたったら、きつねなんか助けて、村の人たちに見つかっても知りませんからね」

 きつねの足に薬をつける男のうしろで、妻はいった。

 人の匂い。

(この人もきつねなの?)

 男は妻に気づかれないくらいに小さく、首を横に振った。

(あんた、人と結婚したの?)

 男はだまって、目だけでうなずいた。

 きつねの言葉は、男にしか通じなかった。

 きつねの傷は深かった。

 高熱を出し、意識は遠のく。

「だめかもしれないわね」

 妻の声が冷たくひびく。

 その夜、男は妻が眠り込むと、きつねのそばに近づいた。

 きつねは絶え絶えの息の中から、ぼんやりその姿を見つけた。

 男がふっと息を吐く。

 その息は、雪の中でもないのに、白く輝いていた。

 白い息は、男の手のひらの上で、小さな玉になった。

 その玉をきつねの口元に近づけると、男はもう一度ふっと、今度は白くはない息を吐いた。

 輝く玉が、きつねの口の中に入っていく。

きつねは、一瞬、喉をつまらせ、それを飲み込んだ。

 からだの中を何かが駆け巡る。

 目を見開いたきつねは、大きく息をついた。

 きつねの熱はひき、からだが軽くなる。

 じんじんと痛んだ傷からも、何も感じなくなった。

「もう、だいじょうぶだ」

 男はいった。

 きつねには、何が起こったのかわからなかった。

 熱に浮かされて夢でも見たのかと思った。

 次に目を覚ましたとき、きつねはすっかりよくなっていた。

 傷口がふさがるまで、きつねは暖炉の前に寝かされて、その場所から人の暮しというものを見た。

 決まった時間に取る食事。

食べ物は屋根のついた家の中で守られ、その中から必要な物を使い、料理する。

 湯気の立つ熱いお茶を、男はおいしそうに飲んだ。

 起きているときと、寝るときには、ちがう服に着替え、風呂にも入る。

 もちろん、なかまの呼ぶ声が聞こえても、遠吠えなどしない。

 男の妻は、男が人なのだと信じきっていた。

けがをした娘のきつねまで、そう信じてしまいそうだった。

やがて、きつねの傷口はふさがり、部屋の中を歩きまわれるほどになった。

「そろそろ山へ帰してあげたら」

 そういったのは、妻のほうだった。

 晴れた朝。

「じっとしてるんだよ」

 男は麻袋の中にきつねを入れて、そりにのせた。

 きつねは暗い袋の中から、しだいに濃くなる山の匂いをたしかめていた。

 そりが止まり、袋の口がひらかれる。

 まぶしい陽射しに目を細め、娘のきつねは外に出た。

 と、そこには、あの日見た、あの銀色のきつねが立っていたのだ。

 銀色ぎつねが木立のあいだを走り抜ける。

 娘のきつねは茶色い尾を振り、そのあとを追った。

 走りつづけるきつね。

 その息は激しく、笛の音のような音を吐いていた。

 山の頂につくと、二匹は足を止めた。

 娘のきつねは、荒い息のまま、

「やっぱり、きつねなのね」

 もう一度、たしかめる。

「ああ。でも、きつねだった、というほうが正しいかもしれない」

 銀色ぎつねは、もとは茶色いきつねだった。

 人に憧れ、人の暮しに憧れて、とうとう、その夢を叶えてしまった。

 人に化け、人をだまし、妻と家を手に入れた。

 だが、もちろん、人ときつねとのあいだに、子供は持てない。

 娘のきつねは、銀色ぎつねの首に顔をうずめた。

「きつねの匂いがする」

「えっ?」

「あんたが人に化けてるとき、あんたのからだからは人の匂いがしたの。でも今はちがうわ。きつね

の匂いよ」

 銀色ぎつねは、自分のからだの匂いをたしかめた。

「知らなかったよ」

 娘のきつねは銀色ぎつねの匂いを深く吸い込むと、

「もう、きつねには戻らないの?」

「ああ」

「だったら、あたしも人になってしまおうかな」

 おどろいたようにからだを離す銀色ぎつねに、娘のきつねはかまわずいった。

「あの人を追い出してしまいなさいよ。そうすれば、あの家にあたしが入る。子供だって持てるわ。

あんたとあたしと、それに子供たち。夢のようだわ」

 子供たち。

 銀色ぎつねは、陶酔しそうになるそのひびきに、あわてて激しく首を振った。

「そんなわけにはいかない。妻には恩がある。人になれたのも、あの家に暮らせるのも妻のおかげだ

「恩ってなに?」

 きつねには、わかるはずのない言葉だった。

 山の奥に向かって、娘のきつねは駆け出した。

 銀色ぎつねを振り返る。

 でも銀色ぎつねは、あとを追わない。

 娘の姿は消えた。

「子供たち……」

 それは銀色ぎつねがあきらめかけていた、でも銀色ぎつねに残された最後の夢だった。

 人の姿に戻り、そりをひいて家に向かいながら、その言葉は頭の中に何度もこだまし、男を酔わせ

た。

 それから男は、自分の匂いが気になるようになった。

 ときどき、腕の匂いを嗅いでみる。

 そしてそのたびに、あの娘の姿が目に浮かぶ。

 山を歩くたびに、気がつくと、娘のきつねをさがしていた。

「感じる……」

 男はあの娘の気配を感じていた。

 男の姿が、きつねに変わる。

 山の頂に向かって走り出す。

 そのうしろから、娘の足音が近づく。

吐く息の音が聞こえてくる。

 二匹はまた頂に立っていた。

「人になったんじゃなかったの? 何しに来たの?」

 銀色ぎつねは答えなかった。

 答えられなかったのだ。

「それとも、あんた、きつねに戻る?」

「いいや。もう、それはできないんだ」

「できない?」

「そう。この毛の色を見てみろ。妻といっしょになった夜、おれはもう、きつねではなくなったのだ

。そして、その夜、おれは死にかけた。自然の掟をやぶったせいかもしれない。目の前に、白く光る

玉が見えて、それは今にも、おれから遠く離れようとしていた。あれはたぶん、おれの命だ。おれは

あわてた。人になる夢を叶えたばかりなんだ。死ぬわけにはいかない」

「それで?」

「おれは、その玉にくらいついた。これ以上吸えないくらいの勢いで息を吸い込んで、そいつを飲み

込んだ。それだけじゃない。そのとき、そのあたりにあった精気をみんな吸い込んだみたいんだ」

「どういうこと?」

「いいか」

 銀色ぎつねは息を吐いた。

 それは娘のきつねが熱に浮かされたときに見た、あの白く光る息。

 銀色ぎつねが息を吐きつづけるあいだ、その白い息は、まるで蜘蛛の糸のようにつづいていく。

 銀色ぎつねの目の前で、大きな白い玉になる。

 と、ともに、銀色ぎつねの毛は、娘と同じ茶色になっていった。

 雪の上に、銀色ぎつねが倒れた。

「なにしてるの! はやく。はやく、その息を吸うのよ」

 娘のきつねがせきたてるのもかまわず、銀色ぎつねは静かにつぶやいた。

「おれと生きてくれないか? すぐには、いっしょには暮らせない。それでも待っていてくれるのな

ら、おれとおまえと、それから子供たちといっしょに人の暮しがしたい」

 娘のきつねはうなずいた。

「本気か?」

「本気よ。あたしは死んだも同然。だから、あんたのために命をかけたっていいの」

「だったら、おまえにおれの命の半分をやる。半分といっても、きつねの命の十倍以上はあるだろう

 銀色ぎつねは、光る玉の半分を吸い込み、それからふっと息を吐く。

残っていた玉の半分が娘の口の中へと入っていく。

「だから、待っていてくれ」

うなずいた娘のきつねの毛は、銀色に輝いていた。

 それから男は娘に会いに、山へかよった。

 夜、家の窓から月夜に照らされた娘の足跡を見つけて、追いかけていくこともあった。

「どこへ行くの?」

 けげんそうな顔の妻に、男は差障りのない言い訳をして家を出る。

 おかしい、と妻は思った。

 そしてあとをつけたのだ。

 雪の中を行く男のあとを。

 男の向かった先は山。

 それも、人の通ることのない獣道だ。

 妻は男を見失い、山の中を迷った。

 日が落ち、凍りつくような寒さが妻をおそった。

 あたたかな家の中で、妻が目を覚ましたときには、もうからだの自由はきかなくなっていた。

「なぜ、あんなところに……」

 看病をしながら男は聞いた。

 妻は何も答えない。

 何も答えず、男の自由をうばった。

 目が離せない妻のために、男は娘のきつねには会いにいけなくなった。

 娘のきつねは男を呼んだ。

 何度も家の前まで足跡をつけた。

「今は会えない。妻が病気になったんだ」

「だから?」

「妻を放っておくわけにはいかないんだ」

 娘のきつねは人になることに憧れたわけではない。

銀色になった毛皮の中にあるのは、やっぱりきつねの心。

人の気持ちなど、わかるわけがない。

ただ男がもう、自分には会いに来ないのだということだけはわかった。

山の頂にひとり立ち、男の住む家を見つめた。

「あの家に、あの人と、あたしと、子供たちで暮らすはずだったのに」

 それからしばらくして、男の家から弔いの行列がつづくのを娘は見つけた。

 それは男の妻の死を意味していた。

「もしかすると、あの人にまた会えるかもしれない。とうとう、あの人と暮らすことができるんだ。

ほんとうに、あの人と暮らせる日が来たんだ」

 娘の胸は、いっぺんにふくらんだ。

 待ちきれずに、少し離れたところから行列についていった。

 男がどんなによろこんでいるかと思うと、胸が高鳴った。

「あの家で、あの人と、人の暮しを始めるんだ」

 娘は人に化けた自分の姿を思い浮かべる。

 けがをしたときに、あの家で見た人の暮しを思い出す。

 ところが娘が見つけた男の顔は、悲しみに打ちひしがれていた。

「どうして?」

 うれしさにはち切れんばかりだった娘の心は粉々に打ち砕かれた。

 それでも、最後の望みをかけて人に化けると、男の家の戸をたたいた。

 まばゆいばかりに美しい、人の姿になった娘。

 それなのに、それさえも、男の目には映らなかった。

 娘は立ちつくした。

 そこにいるのは妻のために涙を流す男。

 きつねではなく、すっかり人となった男だった。

「あたしとの約束、忘れたの?」

「忘れたわけじゃない。でも今は、考えられない。妻は、おれの世話をして、おれのそばにずっとい

た人なんだ」

 男の心は凍りついていた。

 その心に触れたとたん、娘の心も凍りついた。

「もう、おしまいだ」

 娘は狂ったように、山じゅう駆けまわった。

 走って走って走りつづけた。

 荒い息は、やがて白く輝きだし、その息のかかった土からは芽が吹き、木の枝には花が咲いた。

 娘の銀色だった毛並みが、もとの茶色にと戻っていく。

「あたしのことなんか、どうでもいいんだ。あたしなんかいても、しかたないんだ」

 娘は走りつづけた。

 残された最後の息を、はっはと吐き、とうとうのぼりつめた頂で、もつれるように倒れこんだ。

 そこからは、男の家が見える。

 人として自分も暮らすはずだった家が。

娘は大きく息をついた。

 もう、白い息など残ってはいなかった。

 薄れゆく意識の中で、あの日のことがよみがえる。

「おれと生きてくれないか」

 銀色ぎつねの声が、耳の奥に聞こえてくる。

 赤く、青く、様々な色に燃えていた心の炎は消え、静寂が娘をつつんでいた。

「ただ、いっしょに生きていきたかっただけなのに」

 

 男は窓の外を見た。

 白い世界の中に、そこだけが緑に芽吹き、花を咲かせている山。

「まさか!」

 男は走りだした。

 頂に向かって。

 その姿はもう、きつねに変わることはなく、人の足は雪に沈む。

 男の目の奥には美しい、人の姿になった娘が映っていた。

 その姿を追いかけて、男は一歩、また一歩と、もどかしく進んでいく。

 娘は何も知らず、息絶えようとしていた。

 

 雪が舞った。

 緑に芽吹き、花を咲かせている山に。

 雪が舞った。

 まるで山を隠そうとするように。

 消そうとするように。

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  • #1

    しがみねくみこ (月曜日, 10 10月 2022 17:59)

    大人の童話です。